★★★★★ 本日のマスコミ用語 : 「ニュースの価値判断」 ★★★★★
ここ最近、毎日のようにネットメディアを賑わせている「マスメディアの没落」。テレビ局ではプライムタイムでも視聴率ひとケタ台が当たり前となりつつあり、雑誌社では休廃刊が「ラッシュ」ではなく日常風景に。海外からも大手メディアの危機的な状況が絶え間なく伝わってくる。
そんな中で、最もヤバげな雰囲気を全身から発散しているのが、最も非効率な組織体を持つ新聞業界だ。去る6日は「新聞をヨム日」、12日までは「春の新聞週間」とのことで、販売店らが必死のPR活動を行ったようだ。だが、いかに劣悪な人材が揃っているという新聞業界と言えども、こんな付け焼刃の活動で業績が回復するなどとはさすがに思っていないだろう。いや、まさか。
新聞各社が気づいているのか否かは定かでないが、各社の業績悪化は「ネットの台頭が原因」などという単純な理由だけではない。業界の成り立ち、仕組み、体質、慣例から利益構造に至るまで、あらゆる側面で「社会悪の筆頭」という国民的な合意が形成されようとしていることも影響を与え始めているのだ。そこに持ってきて、強力無比な代替メディアの登場。よほどのことがない限り、今後の再浮上の目はほぼ完全に潰えたと言ってよいだろう。
情報に敏感な層は、業界に愛想を尽かしネットを情報源に固定した。鈍感な層は、いつまで経っても無関心。新たな読者層を開拓するには後者にアピールするしかないが、彼らは新聞業界自身が強力に推進した「平和運動」「ゆとり教育」「総バラエティ化」の被害者だ。しかも、仮に情報の重要性に気づいたとしても、彼らもまた新聞に戻ることはなくネットへと雪崩れ込むことだろう。
自分たちの理想が、自分たちの利益を喪失させる原動力となることを認識できなかった低能業界のなれの果てだ。最後に残った読者層、すなわち団塊世代の寿命が盛大に延びることに期待を寄せるしかないだろう。
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国内最強の談合業界を作り上げた元凶とも言える日本新聞協会(笑)の重い腰を上げさせてまで、決死のプロモーションへと突き進んでいる腐れ新聞社どもだが、今後、「よほどのこと」はあり得るのだろうか。ネットという装置そのものが完全にオルタナティブ・メディアとして君臨(@変態新聞)しようとする中で、時代の趨勢に抗うだけの戦略と戦力を有しているのだろうか。
自社の商品(新聞)が、競合商品(ネット)よりも優越的であると証明する材料を持っているか否か。この10年ほど、凋落の一途を辿ってきた業界だけに、さすがに検証と検討くらいは済ませているのだろうと考えるのが筋であるが…果たしてどうだろうか。
先日、日経新聞のWebサイトに、日本新聞協会が識者(笑)3人を集めて新聞の利点をアピールするトークライブ(笑)を行ったという記事が掲載されていた。この記事では、まさに「なぜ新聞を読む必要があるのか」について、御用コメンテーター(新聞社から仕事を頂戴している漫画家ども 笑)が検証を行ったという。
●ネット社会での新聞の意義語る 「新聞をヨム日」でイベント
(日経新聞 09年04月07日)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090407AT1G0603E06042009.html
しりあがり寿さんは「ネットも見るが、どのニュースが大切かは新聞で確認しないと不安になるので手放せない」。やくみつるさんは「新聞はどのニュースが重大か記事の大きさで分かる。紙をめくれば色々なページにすぐ飛べる新聞はネットより便利」と強調した。
しりあがり寿、やくみつるなどといったマスコミ好みのニセ識者に、現在の窮状を救うロジックなど組み立てられるわけがない。御覧の通り、「不安」を掻き立てる卑劣な扇情論(しりあがり)と、意味不明な重箱つつき(やく)という体たらく。やくにいたっては、言うに事欠いて「紙をめくれるので便利」という原始人のような主張(笑)。ま、ミスキャストですな。
こんな連中にマトモな議論などできるわけがない。だが、常日頃から「俺様こそ日本の知性」と公言して憚らない大新聞社の幹部クラスなら、もっと知的に考えているのだろう。というわけで、1年ほど前の読売新聞社の社会部長の講演から。
●「新聞は役立つ」 読売新聞社会部長が講義
(読売新聞 08年05月20日 ※Web上の記事は削除済み)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ishikawa/news/20080520-OYT8T00148.htm
中井部長は「新聞を読んで世の中を幅広く知っていると社会に出て強烈に役立つ。インターネットと比べ、新聞は見出しや記事の大きさからニュースの価値判断が分かる」と話した。
何ということだろうか。社会部のトップともあろう者が、やくみつるなどという上げゾコ識者とまったく同じ論理(笑)を展開しているとは。この程度のオツムしか持ち合わせていない人間が社会部のトップで御座ること自体が、新聞業界の抱える問題なのだ。
ならば、読者の視点から新聞を擁護することはできないだろうか。ちょうどいいことに、変態新聞が一般人からお褒めの言葉をいただいたという自画自賛記事を載せているので、こちらをチェック。「新聞とネット」と題した考察コラム中の例示エピソードとなっているので、変態も「ここがポイント」と考えているはずだし。
●多趣閑言:新聞とネット /静岡
(変態新聞 09年01月13日 ※Web上の記事は削除済み)
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20090113ddlk22070123000c.html
※拙ブログに全文を引用した記事あり http://matt.iza.ne.jp/blog/entry/876381/
「ネットを使いこなす世代なら信ぴょう性がないのはよく分かっている」と言い、新聞の信頼性を再認識したという。 「ネットは記事の羅列でニュース価値が分からない。新聞は記事を紙面のどこに配するかや大きさで示してくれる」とも話していた。あくまでネットとの比較だが、つらい体験から新聞の存在意義を感じてくれたことがうれしかった。【静岡支局長・照山哲史】
…ご理解いただけただろうか。
どこがどう「知識層」なのかさっぱり分からないメディア芸者のエセ識者も、世界最大部数を自称する巨大新聞社の社会部のトップも、そして新聞という媒体に愛着を示して強力に擁護しようとする読者も。その全員が、「新聞を救うためのアイデアなど持ち合わせていない」のだ。
おそらく、この「記事の大小が~」という主張は、業界の内輪で議論された結果の「統一見解」なのだろう。そうでなければ、こんなゴミのような差別化点を、アカの他人であるはずの3名がシンクロ競技のようにクチを揃えて主張するわけがない(笑)。
「記事の扱いの大小で」などというロジックを本気で主張しているなら、ネットメディアとの議論の席では、どこぞのザコキャラよろしく、指先ひとつでダウンを喫するだろう。ネットメディアでも、本気でやろうとすれば簡単に実現できてしまうのだから。リアルタイム性を優先しているから、新聞の優位性(笑)に対して本格的に対抗する気がないだけの話だ。
もし、集合体としての「ネット情報」のフラット性に対する差別化要素として考えているなら、お話にならない。たとえば「読売新聞 vs 2ちゃんねる」という特定のリングであれば武器にもなるだろうが、それは単なる論旨のすり替え。「新聞では情報をまとめて読めます」という程度の主張に過ぎず、上記の通り、マネしようと思えばいつでもできる。
要するに、「記事の大小」など「何の役にも立たない」ということだ。
もっと簡単に言えば、新聞社のエリートの皆様は、揃いも揃って「お手上げ」なのだ。
小学生でも反射的に「おかしい」と思う主張を繰り出すしかない新聞社。この腐れ業界は、まだ私たち消費者を騙せると考えているのだろうか。ならば、このまま滅びの鐘を聞き続けるがいい。
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日本新聞協会、読売新聞、変態新聞が主張したいのは、媒体の特性ではない。各社の主張ではボカされているが、本当はこう言いたいのだ。
「選ばれし知的エリートである新聞記者が判定する情報価値基準を利用できる」
「どこの馬の骨が書き散らかしたとも分からない情報とは信用度が違う」
これが「記事の扱いの大小」という意味不明な主張の本旨であることは確実だ。上記の3組は、「エリートの俺様が大小を決めてやるんだから、愚民のお前にも分かりやすいだろ」「だからお前は新聞を読むべきなんだよ、アタマ悪いし意欲もないんだし」と、こう主張しているのだ。この不遜な思い上がりをこの期に及んで捨てることができないからこそ、現在の窮状に対して何のカウンタープランも持ち合わせずに、今日までメシを喰ってきたわけだ。
事実、こうした新聞社の主張は、本当に社会で罷り通ってきた。私たちの痛恨の過去だ。
そして、この卑劣で傲慢な人間どもに対して怒りを表明しているのが、最近のネットユーザーたちだ。新聞業界は、上記のような僭越極まりない選民思想を、本当に実行できるビジネス環境を分捕ってきた。そのあり得ないほど盤石の事業基盤こそが、朝日新聞や変態新聞のような「戦後の間違った日本」を作りあげてきた。
絶対に揺らぎなどしない基盤のもとで繰り広げられてきた、その犯罪性を問うべき「言論」活動は、まったく事情を把握していない人でもひとたび知ってしまえばコンマ2秒で「新聞社の敵」となり得るほど悪質なものだった。現に、自分が騙されてきたと知り、新聞業界を見限った人は山ほどいる。その反感自体には、ネットという代替メディアの特性は関係していない。新聞について言うなら、私たちは紙メディアを見限ったのではなく、新聞業界に巣食う下劣な人間どもとの決別を決意したのだ。
ネットは、単にその主舞台であるに過ぎない。敢えて言えば、反新聞社に転向する「理由」の発信源ともなっているが、その動力は新聞バッシングの論ではなく、新聞社自身が発した記事内容そのものなのだ。だからこそ、私たちは「なぜそんな記事が書かれたのか」という本質論へと遡り、根源へと辿り着いている。
新聞業界はこの点の評価を怠り、本質から目を背け、いまだに「潰せる」と思っているらしい。読者の姿を直視しようとしていないからこそ、自社の窮状の原因に目を向けることもないし、そこからの脱出方法を真剣に考えようとしないのだ。
なんと情けない業界なのだろうか。
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今日も、朝日新聞社が、「世論」を一切無視し、メチャクチャな論理で(事実上の)皇室制度批判を繰り広げている。その一方で、変態新聞社は、またまた教科書検定に難癖を付ける中核派一味を「市民」などと報道している。いつものタワゴトを繰り返すだけの過激派が呼びかけた記者会見にノコノコと出かけるとは、危機意識も何もあったものではないではないか。
これらのクソ記事も、「記事の大小が~」という衝立で私たちの目を欺き、社会を思うままに動かせるという新聞記者及び業界特有の腐敗した「自覚」を明確に映すものだ。だが、上記のようなプロセスを経て朝日新聞や変態新聞の正体を知ってしまった私たちは、もはや記事そのものではなく、新聞社の姿をした反社会勢力の思想、それを「権力」として振り回せる特権に対して怒りを募らせる。
それは、多くの人々が物事の本質を捉えているという何よりの証であり、今後、新聞社の浮上はないと言い切れる材料でもあるのだ。
これから増えていくのは、「媒体特性としての魅力」を判断する人々ではない。媒体を悪用し、自分自身の利益として着服してきた業界の行為を、自分自身の良心のもとに判断する人々なのだ。
余程のことがない限り、新聞社の事業は壊滅へと向かう。それを救うのは「記事の大小」、つまり「俺らエリートが情報をくれてやっからよ」という意識を矯正するための業界の自省だ。しかし、上記の通り、協会から末端記者まで、その意識はカケラも見えてこない。当然だ、この期に及んでも未だに不利益は販売店に押し付けてしまえばいいと、部数を伸ばすなら読者の意識を誘導してしまえばいいと考えているのだから!
敵は、お前自身なのだ、新聞記者よ。私たちに刃を向けている限り、お前の未来には確実に雲が増すことだろう。国内を腐らせた「同期」である団塊世代が死に絶える時、お前はそれを実感できる場所にいるはずだ。
それでも未来が開けていると考えるなら、新聞記者よ、一度お前自身が購読申込を取りにいけばいい。新聞拡張団の一員としてノルマを背負い、一般家庭の玄関ドアを駆けずり回って一週間ほど働いてみれば、実情がリアルに体験できることだろう。
それでも「理想」に邁進するなら、一定の覚悟を固めておくことだ。
by izaiza5151
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